死の瞬間と〈海賊の娘〉 その2

本屋大賞の著者や作品の傾向を知っていたわけでは、全くない。激しい日程の合間に、少し、息抜きをしたかったからにすぎない。
にもかかわらず、前述したように、圧倒的筆力に屈服してしまい、窮屈な日程を、さらに、タイトなものにしてしまった。小説世界に、すっかり引きずり込まれてしまったのだ。自業自得である。それでいて、虚構の世界の醍醐味に、すっかり陶酔している。
そればかりか、あの著名な立花隆氏の[ 証言-臨死体験] のなかに、取り上げられたひとりの木内鶴彦氏(コメットハンターとして公認されているかたでもある) の、臨死体験の説明を、ふっと思い出していた。

瞑想は、死の練習であると、ずいぶん前に、何かに書いたことがあるが、反応は思わしくなかった。
体外離脱を何回か繰返し、意識体として、宇宙を巡った経験は、臨死体験者のそれが、わかる気がするのです。

今回、エンタメの小説として読んだはずが、ぐいぐい虚構の世界に引き込まれて、生死のやり取りの修羅場で、普通に言うなら、死の追体験とも言うべき、死の恍惚感を得たのです。
普通でない言い方をすれば、深い瞑想状態の究極の意識状態の、超越的な体験を味わった気がしたのです。
それは、体験者なら、わかるように、意識が拡大し、肉体から離れた澄みきった状態とも言えます。そこには、恐怖も、傷みも、不安もない、意識の広がりの恍惚のみの存在の世界としか言いようがないフィールドがあるだけです。

激しい活動のあとの、ふとした休息の一瞬、その隙間から、人は、誰でもそのフィードルに入りこむのでは、ないでしょうか。

いま、オーストラリアに出発すべく、JALのラウンジで寛いで、これを書いています。
小説の描く虚構空間に入り込む、もうひとつの功徳を、いま、痛感しています。著者に感謝します!

                                                                    心の自由さに感動 のむらっち


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