ローマへの我が小さな奇跡

ニューヨークからスペイン。そのマドリッドから、イタリーはローマに着いたのが、16日の夕方だ。

ホテルには、現地の旅行代理店の社長とガイドさんが、待っていてくれた。

ここで、関西からスイス、ミラノ経由のもう一組の増井、富内、伊瀬知、島崎グループと合流する予定だが、このホテルに予約はなく、他のホテルだろうと言うことになり、一切連絡がとれず、困惑するが、ガイドさんに任せて、マリア-カラスも、通ったと言うレストランで食事。
食事の終わる頃、いきなりと言った感じで、不明だったさっきの一行四人が、現れた。
ビックリ! 同時に  ああ よかったと、ホッとする。代理店の手配によれば、同じホテルに部屋がなく、近くの別のホテルに変更され宿泊している、と言う。
別の旅行代理店(4緑)の連絡(4緑)のミス(7赤、9紫) とともに、4人は、私やメンバーにさんざん携帯で連絡したけれど不通(4緑)だったと言う。

しかし、これで、予定どうりに全員揃い、次の日は、チャーターした専用車で、これまた、手配してくださったレストランつきの農場に行けることになった。

15,6年前、一般ツアーに混じって、ある男性と私の二人でスペインを回ったとき、ガイドしてくれた人物が、じつは、今回のマドリッドのガイドしてくれた人物と同一であった。あのとき、その他大勢のなかのひとりのツーリストである私を、彼がおぼえているはずはない。
しかし、私は、彼を忘れようがなかった。同行した男と、私がみたそのガイドの過去世とその人生の挫折とを、何回も同行の彼に語ったからだ。
しかも、ガイドは、気付かなかったが、私と男の二人だけの裏どうりのレストランで食事をしているとき、ガイドが女性同伴で入ってきて、隅の席で、暗い顔をして語り合っていたのも印象に残っているのだ。

あのとき、ガイドの端々に滲む希求したであろう絵画の世界で身をたてようとしたことからの挫折感と、日本へのシニカルな目や批判には、どこか、恨み節があるように感じられ、私はわたしで、心の奥でひとりで、傷ついていたのだ。

だから、彼の事を忘れようにも忘れる事は、なかったのです。

しかし、今回の再開は、過去の諸々がスッカリ吹っ切れ、ガイドに徹した姿があった。シニカルな目は、笑いをとる職業的話術にしっかりと昇華されて、無邪気なツーリストを笑いの渦に巻き込む。
その人間味と深さは、歳月を経て葛藤を克服し、変貌した密かな個人史として結晶していると思え、人間はかわれるのだと、思わず感動して、ガイドする彼の横顔をうるうるする目で、わたしは、みつめていた。
ひとは、人生のアーチストになれるのだとー。それはりっぱな一つの作品なのであろう、ともー。
その夜のセミナーで、その話の一端にふれたのだが。

そして、このローマでも、ささやかな、シンクロニシティは、続いておき、同時に気学的実験の成果をも手にすることができた気がするのです。

                                                          東回り一周の旅の意味に
                                                                              わくわくの むらっち


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