帰国の空で

東回りの世界一周の旅は、帰国の道につく。気学的課題、意識のテーマに、自分なりの収穫があったと、思うが、追々発表しようと計画しています。

ローマでは、ダウンタウンの中心の五ツ星のホテルに泊まれたのも良かった。ニューヨークは、ツアー会社が準備した中級のホテルをキャンセルしてもらい、中心から離れた旅慣れした人の泊まる、格安の三流ホテルを、指定した。仲間に悪かったかもしれないが、二つの理由から、そうしたのであったがー。

6月19日、駆け足だったが、もう帰国である。いま、ローマの空港でチェックインをすましてラウンジ。
AVIAPARTNERがユーザーと言うラウンジであるが、国によって、ラウンジの雰囲気は、全く違う。その違いが、たまらなく好きで、違うラウンジに入ると、わくわくする。

昔、ある女性を、ラウンジにご招待したら、あとで、[ せっかくの買い物ができなかったわね。村田さんは、自分のスティータスをみせつけたいのよ]  と周りの方々に言っていたらしい。

ウーン、さすが、カシコイ方だと、感心して以来、むやみに人を誘わないように心がけているのですが。買い物にも色々あるが、たかがラウンジで、スティータスもないだろうが、私のビリーフには、物的買い物もいいけれど、ラウンジのこの雰囲気と人種と職種や社会性の醸し出す目に見えないなにかの買いものが、興味深く、これも捨てたものじゃないぜ、と、たまには啖呵を切りたくなるが。

自分のムラと家しか知らない若者には、常識に凝り固まった安っぽい正義と井戸端会議的価値観のオジンやオバンの腐ったステロタイプの価値観やビリーフをかなぐり捨ててほしいのだ。(当たり前だが、優れたオジンやオバンも山ほどおられる)

今朝、ローマのホテルの出発間際、先にロビーに降りて皆さんを待っていたとき、初めてご参加の、いつも控え目な大学生が来て、ふかぶかと頭をさげて、小さな声で、有難うございましたと、言いながら、涙をながしていた。
言葉はかすれがちでしたが、(感動的な旅でした。深いこころの奥に一生残る何かを刻み込み、有り難い想いで、胸がいっぱいです)という意味が、私の胸にひびいてくる。彼女を誘ったその娘の若い叔母が、言葉を添えて、有難うございましたと、お礼をいう。彼女の目にも、涙が、溢れていた。
思わず、その姪ごさんの手を握りしめていた。そして心のなかで、この純粋性で受けとめた事柄を、物質次元で汚されることなく、相対世界(物質世界)でも絶対界でも、二つの世界で、花ひらかせてほしいと、この若き女性のために祈った。

感動は、知性を越える。愛は数字で表現できない。数量化し難い。しかし、愛は理屈抜きに伝わる。
感動も同じであるでしょう。それは、一種の魂の震えでもあろう。しかも、それは共有できるのだ。物は、単純にその所有者のものである。所有者だけの喜びにすぎない。

ローマにくるたびに、そして栄華を誇った遺跡を見るたびに、それを痛感させられる。人間の偉大さとともに、人間の深い業そのものを、間近に見せられ、ただ、うなだれ、こうべをさげるのみである。
[ブルータス、お前もか!]  と叫びつつ、20数回も身体を刺されつつ、息絶えていったジュリアス-シーザーの体とこころの痛みを思い出すたびに、それが、少しは、我が身に甦るようで、ぞくぞくしてきて、思わず、想いを敢えてそらすしかないのですがー!

物質次元を、越えるとき、超越的意識に達する。そこは知性を越えた、真の叡知と愛の世界がある。過去の英雄や英雄に仕え、あるときは対立した芸術家たちが、そこにブローチしていたならこの地上には、別のバラ色の帝国が築かれていただろう!
仏陀も、イエス-キリストもそのことを、気づかせるためにこの星に、現れたはずであったのですがー! 誰が、それを都合よくねじ曲げたのでしょうか?

いま、FINNAIRのヘルシンキ行きの機内。もうすぐ、ヘルシンキの空港に着くと言うアナウンスです。急いで、着陸体勢をとらなくちぁ!

                                                                                 慌ててシートベルトの
                                                                                                     むらっち


最近の投稿