ANAと不思議な少年石川くん その2

成田空港を飛び立ったジャンボ機に搭乗した彼と私は、ご機嫌だった。もっとも、このジャンボ機は、今年の3月31日で、40数年活躍して、国内線からは、姿を消したがー。

それ程混んでないキャビンでゆったりとシートに埋もれて、シカゴ経由で中西部の人口8千人の小さな町のことを、あれやこれや、語った。話し疲れてウトウトしていた。すると、いきなりだったー

「先生、わたし、この飛行機を、操縦してきます」

「うん、気をつけて」

「はい」

いつもの事のような、会話。バカな私は、疑問に思うこともなく、いつ19歳の彼が、ジャンボ機の操縦を覚えたのだろう、と軽く思いつつ、シートに沈んで眠った。

「先生、寝てました?」

「ウン? ああ、30分たっているね」隣に掛けたばかりの彼の顔が、微かに高揚していた。

「どうだった? 操縦は」

「はい、やはり、少し興奮しました」

珍しい、いつも温和な彼であるのに。彼が興奮したり、強い口調になったり、イラッとしたり、はしゃいだり、大声を出したりする姿を、一度も見たことがない。また、何かを自慢することもない。英語は、達者だったが、その場面がくるまで、一度も英語が出来るとは、誰もが知らなかった。

「先生、先生のオーラ、ーーですね」と、教室でさり気なく、言ったのが、急に親しくなる切っ掛けだった。私のオーラを正しく指摘した人は、これまでで4人いる。そのうちの1人が、彼だった。

私にとっては息子のような彼に、しかし、私は、同世代の友人としての感覚しかない。というより彼は、私の恩人でもあった。
22歳になり、渋谷でバッタリあったとき、いつものように、二重まぶたの澄んだ目で、私をまっすぐ見つめて、いつものように、おっとり言った。

「先生、連絡をとりたかったんです」

「卒業して以来だよね」

「はい、ところで先生、アメリカのステイーブン・スピールバーグ監督と村田先生と組んで、作品をつくりませんか? わたし、間にたちますので、後でお返事をお願いします」

このときの、返事によって、私の運命は、ガラリと変わっていただろう。。人生で何回か、そんなときがあったが。

テレビのショート・ショートのドラマ作品を20本ぐらいシリーズで創らせてくれたのも、彼であった。

そして、20年後、パラオの昼下がり、涼しい部屋のベットで、寛いでいると、付けっ放しのテレビ画面にクギ付けになった。彼が後押しし出来た20年前の私の作品が、放映されていた。

一体、あの少年は、何者だったのか。あのころの私には、当たり前のような存在の少年だったけれど、あれは、私の幻覚だったのだろうか? 当たり前ではなく、感謝すべき存在だった、と今頃き付く。先日の新聞にあった記事が、タイムスリップさせてくれたのです。

さて、読んで下さっている皆さん、すべて、事実です。もし彼を知っていたら、ご一報を。

また、あなたのそばに、彼のような幸運をもたらす、妖精の存在がいたら、あなた様は、どうなさいますか?

              天使に感謝 むらっち


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