シドニー・てんやわんやの年の暮れ その3

ここへ来て、「カオス・混沌」の意味が、わかった(気がする)

この歳まで、カオスの意味など考えたこともない。けれど、混沌とは、自由のことなのだ。そこには、不良も良もないんだとー。

いま、シドニーのMertin Placeでは、テロによる犠牲者の一周忌が厳かに行われているライブのニュース。

一方アメリカのロサンゼルスでは、新作「スターウォーズ」の大々的な宣伝が、ハリウッドスターたちを動員して、過去の40億ドル興行収入を超えるかどうかと、華やかな話題である。

チャネルをもとに戻すと、市長のspeechの後、女性歌手の哀切にみちた美しい歌声が響いている。

昨年の12月15日の今日、オフィス街のカフェ「リンツ」で人質15名をとって立て籠った事件だ。ISの影響を受けた犯人は射殺されたが、犠牲者も出てしまった。

ここへ来て、はや21日目。ホテルの近くのアーケード街やデパートのレストランで、食事をしていると、あの髭もじゃのあの男、紙袋をもったあの女は、「もしやテロリスト??」なんて、思うこともある。

先日、ホテルに来てくれた若いイケメンは、
「この間の土曜の夜、ここのすぐ裏のスタジオで、レゲエの大きなコンサートがあって堪能してきたばかりですよ」と言う。そんなコンサートを開くスタジオが、ここにあるなぞ、つゆしらず。イケメンが帰ったあと、そこのスタジオを見に行くと、いつものオックスフォードストリートの近くにあった。
なんと、不思議な店として時おり行く「まっぺん食堂」という、日本でも見かけにくい、日本語で「食堂」の看板の店。それもレゲエの近くにある。
食堂には、地元の白人、黒人の親子、中東の浅黒い男や女、東洋人などの客。
ステーキをはじめどこにでもあるメニューに加えて、納豆、豆腐、日本酒から、各種の丼ものまでがそろっている。それに、安い。
驚いたのは、BGMである。いつ行っても、日本の戦前から昭和の始め、さらに島倉千代子の歌を大きな音量で流している。だから、親子や友人同士は、大きな声で話さなければならない。けれど、この懐メロを、誰が知っているのだろうか?誰が聞いているのだろうか?(オイラが聞いているけど)

一方、オックスフォードストリートの歩行者天国のはずれは、一流デパートや数々のブランド店が入っている一大ショッピングセンターである。

ここも、高級なレストランもあれば、学生向けのようなフードコートもある。高い料金の回転寿司も賑わっている。

昨日、カミさんの誕生日祝いに、ましなレストランで、ランチでもしよう、と本人の好みの店を探した。「予約の必要な店の食事は飽きたわよ、本物のハンバーガーがいい」と言う彼女が、みている店頭のメニューは、かなり、重い内容なのだ。
ここがいい、と入ると満席で、あとで、また、くるよ、みせの娘にいい残して、ショッピングセンターのペットショッブへ。ゲージをのぞいていたカミさんが、「わぁ!あの子、売れちやったわ。いい飼いぬしに当たりますように」
前回、ゲージから出ていて、店内を走り回っていたとき、抱っこした仔犬のことだ。仔犬がいなくて寂しげなのだ「おい、めし行くぞ」「うん、めし行こうか」京都の女性はたおやかな京都弁を使う、というのはオイラの幻想だったんだ。

レストランは、ほとんど地元の常連のようである。ときおり、とうりすがりのアベックらしいお客。丸々した小柄な年輩の男が、オーナーらしい。部厚い本を開いて食事をしている初老の男声や、四人の太った女性たちに、挨拶して、クリスマスカードらしい封筒を、握手しながら、渡している。
「常連さん、やからやなぁ」と彼女は呟いているところへ、ジンジャエールが来たので、私はワイングラスを持上げて「おめでとう」とカチンとならす。
と、そこへ、店の主が来て、私と彼女に、封筒をニコニコしながら差し出してくれた。ビックリして、ええ、私らに? というと、そうだという。
彼女が「テンキュウ」と言いつつ、受け取った。こう言うときだけネイティブなみの発音をしやがるやつだ!

しかし、いちげんの客に気を使ってもらってと、悪いな、もっと丁寧に挨拶し直そう、でないと、それこそ日本の恥だ。

主を見ると、なんやら電話でなにか、深刻そうに遠くで対応中だ。こちらに来そうにないな、どうしようか。と、運よく、たまたま近くに来た主の夫人らしい女性に声をかけた。
「スミマセン、御主人にお礼を言いたいことと、記念に写真を撮らせて下さいませんか」
「かんたん。いいですよ。ちょっと待っててね」愛想がいい。

見ると、電話を終えた主に、夫人が語っている。やがて、ニコニコして、やって来たあるじに封筒をみせて、改めて感謝の言葉をのべた。写真も撮らせてもらった。
撮り終えると、主の握手の力は強かった。彼女と丁寧に握手をしている。なんとなく、さりげない幸せが、ここにある、と実感する。

混沌・カオスはそのまま、受け入れる。アンビバレンツな対立ではなく、意図的ユニティでもなく、存在を生む存在にたてば、カオスという調和が自ずと生まれる。その時、テロや戦争という言葉は辞書から無くなるでしょう。

     白昼夢のむらっち


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